ユダヤ教の安息日の儀式の際、毎週金曜日の夜に使用された、ポーランドで購入された一組の燭台。 1939年のドイツのポーランド侵攻を逃れてきたポーランド系ユダヤ人がこれらの燭台を携え、ビルナ地区まで逃げてきました。 USHMM特別展「避難と救済」より。
1939年頃、 あるユダヤ人がナチスに占領されたヨーロッパから日本に逃れるときに使用していたスーツケース。 このスーツケースには、モスクワのホテルのステッカー(左上)、日本郵船のステッカー(中上)、日本国内の6軒のホテルのステッカーなど、さまざまな滞在地のステッカーが貼られています。 USHMM特別展「避難と救済」より。
サンフランシスコ・クロニクル紙の記事「難民の悲劇」。 この記事は、支援組織「アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会」のモーゼス・ベッケルマンのインタビューをベースにしたもので、 北米や南米への移動中、滞在地である上海や神戸、リスボンで足止めされポーランドやリトアニアの難民が密集している状況について述べられていました。 難民が足止めされている主な原因は、大部分の国が移民に対して門戸を閉ざしていたため、一時滞在ビザや入国ビザが下りないことでした。 1941年5月。 USHMM特別展「避難と救済」より。
米国国立ホロコースト記念博物館特別展
1939年9月に始まった戦争により、ドイツおよびソ連占領下のポーランドでは、300万人以上のユダヤ人が抜き差しならない状況に追い込まれました。実際にホロコーストの恐怖から逃げ出せたのはほんのわずかな人々でした。1940年終わりから1941年初めにかけて、ホロコーストの大量虐殺が始まるほんの数ヶ月前に、2,100人のポーランド系ユダヤ人が極東へ、さらにその先へと逃れました。最初に避難したリトアニアから東に向かってシベリヤ横断鉄道と汽船を乗り継いで、日本まで約9,600キロという逃避行になりました。多くの人にとっては、上海が流浪の終着地となりました。
多数の人々の不断の努力なしに、安全圏に到達できた人はほとんどいませんでした。行く先々で幾つものユダヤ人団体ならびにユダヤ人社会によって、資金援助やその他の支援が提供されました。しかし最も重要な支援は、オランダ亡命政府およびナチス・ドイツの同盟国である日本の代表者という思わぬところから差し伸べられました。1940年夏のこれらの人道的行為は、リトアニアに避難していた数百人のユダヤ人の救済にとっては重要なものでした。
「大使や領事に大変複雑な避難経路を説明するために、われわれは地図と地球儀をすっかり記憶し、熟知していました。経路がなければ、たとえ書類の上だけでも、一時のために自分達で作り出したのです。」
—ゾラフ・バルハフティク(難民リーダー)、戦後の回想録より