リトアニアの一時的な避難所
1939年の秋から冬にかけて、推定1万5千人のポーランド系ユダヤ人が、政治的に独立していたリトアニアに一時的に避難し、ほとんどの人がヴィルナに滞在しました。多数の人たちは、さまざまな分野で高い教育を受けたエリートで、ユダヤの文化、政治、宗教的なかかわりにより、戦争で引き裂かれたポーランドで迫害に直面していました。家族によっては、戦争の危険と占領から逃れるために、経済的な資力を持つものもいました。多くの難民は最終的に米国またはパレスチナに逃れたいと希望していました。
ほとんど所持品を持たずに避難した人たちは、リトアニアでの労働も許されず、他者を頼ることを余儀なくされました。救済支援と資金の大部分は、米国のユダヤ人慈善事業団体である「ジョイント・ディストリビューション・コミッティー(共同配給委員会)」を通じて提供されました。自分たちの先行きに対する不安、さらに占領下のポーランドに残された親戚に対する不安を抱えながら、難民は戦争がすぐに終わってくれることを願うか、リトアニアが中立であり続けることを願うだけでした。どちらの願いも現実的ではないことは明らかでした。
難民の横顔
大半が成人男性であった難民には、パレスチナにユダヤ人国家建設をめざす シオン主義者の青少年団体やポーランドの戦前の宗教学校(イェシバ)のラビや生徒達などがいました。リトアニアではどちらのグループも学業および教育活動を再開しました。さらに、実業家、弁護士、教師、ジャーナリスト、医師などがいましたが、その多くは職を断念したか、または難民社会でボランティア作業をしていました。食糧配給所や食堂などで、作家や政治活動家が集まり、戦争に関する話をしていました。リトアニア当局が中立性を失うことを恐れ、入隊の年齢に達したポーランド国民が国を離れることを禁止したため、出国が引き延ばされた人もいました。
「リトアニアに避難したユダヤ人は、ドイツとソ連のどちらの占領軍からも同様の迫害を受ける危険にさらされていました。」
—モシュ・クラインバウム(シオン主義者のリーダー)。1940年3月12日、ヴィルナにて
ゾラフ・バルハフティク
ゾラフ・バルハフティクはワルシャワ出身の弁護士であり、He-Halutz Mizrachiという宗教的なシオン主義者グループのリーダーでした。同氏は難民として、占領下のポーランドからシオン主義者を救済し、ヴィルナ郊外に養成キャンプを設けるために尽力しました。バルハフティクの活動はリトアニアのポーランド難民のためのパレスチナ委員会で働きながら、パレスチナへの移民であるアリヤーを援助しました。また、ドイツの西ヨーロッパへの侵攻が逃避経路を遮断する前に、500人の難民がスカンジナビアおよびフランスを通じてパレスチナにたどりつくのを助けました。同氏の支援のおかげで1941年初めに700人がトルコ経由で脱出することができました。
救済活動
多数の機関がリトアニア政府および赤十字と協力して、ユダヤ人難民を救済しました。最も大きな機関は「アメリカ・ユダヤ人ジョイント・ディストリビューション・コミッティー」でした。ヴィルナとカウナスのユダヤ人難民援助協会を通じて資金を提供していました。「ジョイント」のワルシャワ事務所をヴィルナに移したイツァーク・ギターマンという難民に協力するため、モーゼズ・ベックルマンという行動的なアメリカ人が「ジョイント」から派遣されました。この力強いチームは、家や食糧配給所を作り、衣類や靴の配給ならびにその他のサービスを提供しました。
「ジョイントからの資金援助がなければ、ここで路上生活を強いられたでしょう。」
—サミュエル・シュミット(米国の救援者)。1940年3月17日
モーゼズ・ベックルマン
ニューヨーク市出身の社会福祉指導員であったモーゼズ・ベックルマンは、1939年に「ジョイント」で働き始めました。リトアニアでは、政府の複雑な規則と限られた資金源のため、難民の支援に苦労しながらも、賢明な交渉を行いました。1939年12月に同氏は占領下のポーランドにおけるナチスのユダヤ人迫害に関する詳しい情報を持って、リトアニアを出国しましたが、ドイツ軍によってバルト海の航海が阻止され、乗船していた入隊年齢に達したポーランド国民と共に捕えられました。ベックルマンはリトアニアに戻ることを許可され、そこで1941年2月まで難民の支援を続けました。
占領下のポーランドに残る家族への心配
難民たちは国に残された家族・親戚のことを常に心配していました。ドイツ軍がポーランドを占領直後の数ヶ月は、すべてのポーランド人がみな同じように困窮していましたが、ユダヤ人だけ隔離され、強制労働のための連行、ユダヤ人とわかる特別なしるしの着用を強制する命令、ウッチでの最初の大規模なユダヤ人居住ゲットーの設立など、ナチスの迫害はさまざまな方面に及びました。多くの難民は家族をリトアニアに呼び寄せようとしたのですが、違法入国に成功した人もいれば、それができなかった人もいました。多数のユダヤ人は、捕えられる危険性があることと、年老いた両親や子供とともに留まることを望んでいたために、国から逃げ出そうとはしませんでした。